240RS Old talk & 240RS こ ぼ れ 話・昔話
日産の 240RS 1983年 ラリー兵器 公表
2005.1.5
1982年10月6日 
筑波サーキットにおいて 240RS が公表され ジャーナリストによる試乗が実施された。5台の 240RS の内,240馬力3台と 280馬力2台が小雨の筑波サーキットに準備された。 240RS は座間工場での組立て完了のホヤホヤ状態のもので 発表会の為に日産関係者自ら前日に筑波まで搬送し準備やセッティングを遅くまで実施した ・・・ と言う苦労話をお聞きしました。

           CG誌より

   ●
当日は 難波靖治車両実験部長のお話による,ラリー参戦計画やレーサーの長谷見選手,星野選手がサーキットを走ったようです

240RS が産声を上げた ニッサン座間
2004.11.23

240RS の生立ち,つまりこの世に誕生する直接のきっかけは 1982年に見直された FIA規則J項、Gr.AとBカテゴリーが決定したのです

1981年X月 : 待望の 240RS(開発コード:831の開発が最高経営会議にて承認されるそのデビューを’83WRC第1戦モンテカルロ・ラリーにする事も合わせて決定

1982年X月 : ラリー専用車「2.4リットル・DOHC搭載のシルビア」(“ 240RS ”の名称はまだ無い)の開発提案が行われ商品開発室を中心に生産展開を開始

1982年X月 : 大・中・小の各ユニットの設計手配開始

1982年X月 : 座間工場にて工場試作開始(工試・・・実際に 240RS をラインに流し、組立の段取りを検証します)

1982年X月 : 同工場において生産試作開始

1982年10月 : 240RS 本生産開始

1982年11月 : 240RS 予定の200台生産終了・・・FIA-JAFによる200台生産確認抜打ち検査はこの時期

1983年1月 : NISSAN 240RS FIA Gr.Bに正式公認される(デリバリー開始)

1983年1月 : WRC 世界ラリー選手権 第 1戦 モンテカルロ・ラリーに参戦開始

240RS この名前が決定するまでの 開発コードは 831 ・・・ もしかして?企画ターゲットの240RS参戦 : 19831月の 831 だったのか?
現実に240RS は FIAのグループB ホモロゲーション取得は1983年 1月 1日 だ ! そして
1983年 1月 世界ラリー選手権第 1戦 モンテカルロ・ラリー参戦 !
当時,日産の神奈川県座間工場のラインで 240RS は産声を上げた,240RS は約2ヵ月間で生産されエンジンは鶴見工場と聞いています。US110 と混用生産! 従って シャーシNo.と LHD・RHDの関連は無く組立てられた ! 現実は 元々ラインでの生産性なんて考えていないパーツでしたから 生産は大変だったそうです !! 生産試作の時は 設計担当がその場で作業員に渡すために 納品が間に合わなかった部品を紙袋に入れて車と一緒にラインを歩きました。そして「 おーい,どうやって付けるんだー 」の声に ラインに駆け上がって付け方教えながら。
生産台数 200台のグループBのホモロゲーション取得の確認は
JAFが座間で 240RS シャーシNo.と書類を確認したかし 200台全てのシャーシNo.を見るのでなく 抜取で確認した後 あとは書類審査。従って 240RS は200台を確実に生産したハズ ?
当時
,座間工場に 6-7台の部品取り240RSがあったがその後スクラップ処理された! ナンテコッタ,部品の欠けらでも出てこないかナ?

語り継がなくてはならない 240RS の記録
2012.7.4 WED   報提供者  Mr.H.K  Mr.S山くん 20040509 - 20120704 

1985年アクロポリスラリーのサポートは,日産追浜工場の車両開発技術部 日高郁広氏をチームリーダーとする派遣部隊と現地日産ディラーを加えると50人体制のサポートで補助サービス車は20台 !
アクロポリスラリーはWRC Rallyトップクラスの悪路で,サファリラリーに比べ路面負荷は10倍を超える!  サファリで2500Km走行しても壊れないギアの歯欠けが,アクロでは250Km ! そのギアの破断面は衝撃破壊,岩路面、大きい石がごろごろ、地盤が固く、Suspension、Power trainへのダメージ大。その為,部品交換,タイヤ交換,燃料給油回数などが多くサポート隊の負荷も大きくなる。そんな状況で日産チーム優勝 !
当時はスーツケースに部品(対策品・性能向上品 etc)を詰め込んで
約50kgkのスーツケース手持ちで WRC Rally 現地へ出張です。
事前テスト等 長期間の為,やはり日本食の持ち込みは欠かせない。

2004.11.26
エボリューションモデルの情報を提供しましょう
1.エボリューションは一度だけなので 私の記憶では
290HP以上出たENGはありません
2.キャスタートレールを変更して ドライバに「PS付けた?」と聞かれたことはありますが、
パワーステアリングは採用していません
3.サイドブレーキの前後調整は最初から付いてます(オプション)
4.燃料タンク形状を変更してトランク内にスペアタイヤ搭載可能にしたのは エボリューションとは無関係です

鍵字形異形タンクは「海外のどこかで作った?」では無く 私が設計しました
5.バッテリー搭載位置は ヨー慣性低減の為にトランク配置を試みた気もしますが 記憶が曖昧です
6.情報でショックがトキコからカヤバに変更とありますが、トキコは ほとんど使ってません
もともと厚木自動車部品(現日立ユニシア?)カヤバ製で 熱による減衰力低下に悩まされてトキコで何セットか試作したことはありますが最終的にはカヤバと一緒に今やラリー界で常識となった「別タンク式ショックアブ」を開発しました。
別タンク式ショックを最初にラリー界に持ち込んだのは 私なのです(特許取っておけば良かった)

7.エボリューションの仕様を論議した時に ドライサンプにするか否かを論議して止めた気がしていたのですが、あの時論議されたのは「燃料噴射にするか否か」だったようです
。今更、手を加えてもどうせ勝てないから おおがかりな仕様変更は止めよう」という話になったと思い出しました。
240RS ファクトリーは ボディを薬液浸漬による表面腐食を促進させ軽量化を実施した ? ・・・ 果たしてどの位の軽量化が出来たのだろうか ?
注) ホワイトボディの酸漬けは240RSではやはりやってないハズです。むしろガンガンに補強してスポット増し打ちや連続溶接したりしてましたから (日産某氏)

240RS ミッション F5C71Bはシンクロが割れやすかったそうナ・・・当初,全周で歯が所々にあるタイプの黄銅ボークリングがパワーに負けてバラバラになった。その後、全周歯があるワーナーシンクロ用の焼結合金ボークリングに変更しました。その過程で シンクロのボークリングをはずして,要するにシンクロ無しで何戦か戦いました (トランスミッションには悩まされました NISSAN 某氏)
① シンクロ強化対策実施(強化部品販売)
② その後 ファクトリー 240RS のみ 77D ドック・クラッチへ変更 (ダブルクラッチで回転を確実に合わせる必要有り)

  以上、記憶がはっきりしているものだけの情報です。

  注) この情報は皆様の情報を整理したもので,確定ではありません
240RS ボディー・カラー決定は ?
2004.11.23
240RS 名称と 240RS ボディーカラー(トリコロールカラー)は,日産の課内公募で決定したそうナ !
240 ・・・・・ Engine 2400cc = 240ps   RS ・・・・・ Racing Sport  → 240RS
ボディカラー入選者は 現在 NISMO の Mr.M.S氏が入選
SILVIA PS110 Test Car トリコロールカラー 240RS BS110

Chassis No.000002 WRC モンテカルロ デビューの 240RS
2010.7.28  Chassis No.000002
日産は計画通り 1983年 WRC 初戦 モンテカルロラリーに 240RSをデビューさせた。 ドライバーは Mr.Timo Salonen ナビ Seppo Harjanne その結果は 完走 14位という成績だった ・・・ 下記の写真はその時の貴重な映像です。
 

              

WRCでの 240RS は 1983年 Rally of New Zealand2位Salonen が 最高位
2005.10.15
  悲運 ? 勝てなかった 240RS !!
 
1983年 Rally of New Zealand 日産ワークス戦闘体制完了の 240RS 集合写真

 
左から : Chassis No.000027(RHD)   Chassis No.000014(LHD)  Chassis No.000013(RHD)
左から :7位 Mr.Reg Cock/Wayne Jones   2位 Mr.Seppo Harjanne/Timo Salonen  4位 Mr.Shekhar Mehta/Yvonne Mehta
右は
:5位 グループ4 Bluebird Turbo  Mr.Jim Donald/Chris Porter


サロネンは 240RS の 左ハンドルを指定した ! 
2004.11.23

240RS には LHD と RHD がある,ドライバー・サロネンは 240RS の左ハンドルを指定した ・・・ ! その理由は,右ハンドルより 0.4秒/km早い ! ・・・ 数値で具体的な要求するサロネンはすごいドライバーだ (NISSAN 某氏)
サロちゃんは 右ハンドルでも速いし苦にしなかったそうナ ・・・240RSの前年1982年,SILVIA S110で右ハンドル車がターボ左ハンドル車はN.A サロちゃんは迷わ右ハンドルを選択しました(日産某氏)

   
1982 1000 lakes 1982年 PORTUGAL Rally
240RS へ発展直前 ? S110 まだフロントバンパーが 240RS のものでは有りません 1982年は PA10とS110(SILVIA)を併用して参戦してました。と,いうか 主力はS110でした。PA10は基本的には1981年まで メッタさんがどうしてもサファリはPA10で走りたいというので 廃車置き場から探してきたPA10を急遽仕立てて サファリに送ったのがあのマルボロPA10です。そうそう,あれは塗装でなくマルボロから供給されたカッティングシートです(NISSAN 某氏)一方,こんな情報もいただきました,その PA10 は現地の隣りのガレージで塗っていたのを覚えてます。従って,カッティングシートは 240RS のメッタさんのだと思います(日産某氏)
これはビックリ ! ・・・ NISSANのライバル「ランチア」のドライバー・マークアレンが 240RSをドライブした事があるそうナ ・・・ ! 彼いわく,この車( 240RS )で優勝出来ないのはおかしい ! その時彼は タイヤを「ノキア」 にすれば更に良くなる ・・・ !

The whereabouts of Works CarWorks Car の行方
2007.6.18

240RS ワークスマシンの 「使いまわし」 に関して・・・
日産 240RS ラリーの愛好家にとって、当時のワークスカーの仕様・行方は大変興味のあるところです。今後ますます情報が少なくなります、今回 大変興味深い情報を提供していただきました Mr.X氏に感謝申し上げます。
当時、ワークス参戦のビッグラリー(サファリ・アクロポリス・RAC・ニュージーランド等)の度にそのラリーに合わせたセッティングを施し慣らし運転(追浜のコースで実施)まで終了させて新車を送り出していたようです。
前戦で使った車を、例えば アクロの本番車をRACのレッキ車に使い(時には専用に送った車もありました)新車をラリーに使っていたようです。 そしてレッキに使用された車を再整備し ローカルドライバーの発掘やローカル販売戦略の一環としてローカルナショナルラリーに出していたようです。ただ、ごく少数、現地からの要望でローカルラリー用に新車を追浜から送った「まれなケース」もあったようです。 
年度の終了で、本来これらの車は日産追浜に戻ってきて次年度のマシン開発のため分解チェックを受け、廃車となるのですが 全ての車が戻ってくる訳ではなく、現地販売会社や日産系モータースポーツチームに売却されたようです。
また、クラッシュ・廃却としてナンバープレートだけ日本に戻ったものもあるようです。現在、欧州やニュージーランドにあるワークスカーは 上記のような経緯と思われます。
欧州等に残っている 木箱入りのワークスパーツ のデッドストックは これらのビッグラリー用に追浜からスペアーパーツとして送ったもののようです。これらは レッキ車やローカルラリー用に置いてきて日本にはほとんど持ち帰らなかったようで 日産の欧州基地を引き払う際にスペアパーツも込みで日産系モータースポーツチームに売却したようです。
戦う 240RS は美しい
2005.4.19
   
1984 Safari Rally と思われます ?     1983 Acrpolis Rally 海岸を砂塵を巻き上げ疾走する 240RS Mr.Mehta が 6位に入っています
240RS の名場面は数多く見てきましたが,独断の感性で 240RS らしい写真を選ぶとするなら ・・・ この2毎の写真です・・・ このカメラマンは ? 

NISSANの看板 シェカー・メッタ氏 (Mr.Shekhar Mehta) の秘蔵写真発見 !!
2006.4.13

◆ 偉大な シェカー・メッタ氏 ( Mr.Shekhar Mehta ) のご冥福をお祈りいたします
     12.April.2006 61才 没
Mr.Shekhar Mehta Achievements
Winner - Safari Rally (1982)       ・ Family Name : Mehta
Winner - Safari Rally (1981)       ・ Given Name : Shekhar
Winner - Safari Rally (1981)       ・ Dates : born 20 Jun 1945
Winner - Safari Rally (1980)       ・ Gender : Male

Winner - Safari Rally (1979)       ・ Dies in 2006/4 / 12 London. 61 years old
Winner - Safari Rally (1973)       ・ Dies in 2006/4 / 12 London. 61 years old


          
Mr. Mehta
died in UK on 12 april
2006
Mr. Pond
died in UK on 7 februar
2002
Mr. Blydenstein
died in UK on 12 septemb
2007


写真発見 Mr.and Ms. Metha
2009.5.14

ランチャーの前に立つ 1974年 29歳の Mr.Metha です、右の写真は日産の契約下にあった Mr.Methaと奥さんのイボンヌさんがイタリアのワークス Lancia Rally チームのガレージに訪れてディスカッション ・・・ ! ! ??  いずれも非常に珍しいプライベートタイムの写真です。 在りし日の Mr.Metha でした
   

2009.2.2
Mr.Methaの奥さん
Mss.Yvonne の最近のスナップです ・・・ 各イベントに参加され お元気な様子です
    

       
ワークス S110 と 少年期の K-GTR 氏     22年前のMr.Shekhar Mehta来日時の生写真より
貴重なワークス・コクピットには ・・・ 定石のハルダのツインマスターとトリップメーターが2個並び無線マイクもあります
このナンバープレート KNY 59・YA・198(横浜 59や198)は 現在,日産座間に保管されている現車だそうです22年前,神奈川県平塚にメッタ氏がシルビア販売拡大の為に来日していた !! その頃の若い時の生写真を持っている K-GTR氏がうらやましい限りですが更に握手をしたとの事、その時の手の感触はどうだったのでしょうか? ゴツゴツの節くれだっていたのかナ?  又,当時のワークスカーのドライバー席に乗り写真を撮った 今となっては大変貴重な一枚です。 それにしても初々しい K-GTR氏の表情がなんとも言えず輝いています。それはそうです,おそらく大きな感動と共に奥深く記憶に残る出来事だったに違い有りません。

ショッキング な 画像
2009.5.13
        
このショッキングな映像は WRC 1984年 RAC Rally と思われます? ゼッケン 10番は Mr.Shekhar Methaがドライブした 240RS です ? たしか 7位でフィニッシュしていますが ? ・・・
240RS works Driver Mr.Jayant Shah & Co Driver Mr.Lofty Drews
2009.6.5

1983年当時、日産とは大変重要な関係にあったドライバーとコ・ドライバーです、2008年に撮影された映像です。
Mr.Jayant Shahは 240RS のドライバーとして 1983年~1984年 7回 WRCへ参戦し1983年 SAFARI Rallyでは 4位の成績を残すなど240RS で大変貢献してくれました。又、Mr.Lofty Drewsもコ・ドライバーとして 240RS で上位入賞に貢献しました。

         
Mr.Jayant Shah Mr.Lofty Drews 撮影された2008年 彼は 68歳になっている筈です
     ※ 写真は HISTORIC SAFRARI RALLY 2008のイベントで ・・・ まだケニアで暮らすお二方です

Blydenstein と 240RS
Chassis No.000022

ヨーロッパで 240RSを積極的に展開していたBLYDENSTENだが,その数々の240RSの活躍記録が有る。
チーム日産ヨーロッパBLYDENSTEINの240RS が雑誌広告に掲載された同車 Chassis No.000022

   
                             1983年                 1984年
Nissan Europeの
DXI 918 の Left-hand driveは 1983年 RAC Rally クラッシュリタイヤ、そして翌年の 1984年 Portgal Rally・・・しかし デフトラブルで悲運、再度のリタイヤ。
1983年 RAC Rally Mr.Salonen Timmo SS9 Crash retire 1984年 Portugal Rally Mr.Pitkanen SS15 デフ・トラブルで retire

日産のトップドライバー Mr. Timo Salonen
2012.1.12 WED  Chassis No.000025
Team NISSAN Europe BLYDENSTEN Racing Ltd の 活躍はあえて説明するまでもない。そのBLYDENSTENから 参戦の 1984年 RAC Rally Mr.Salonen.Timo/Harjanne.Seppo の 240RSは 6位に入っている。その 240RSの Chassis Noは BS110 000025 (BLS 110 FK)であることが分かった。しかし現在までの私のデータからはその「残存」は確認できない,何処かで眠っているのだろうか?

2005.1.5  Chassis No.000021
1983年 1000 Lakes Rally 8位  Mr.Timo Salonen/Seppo Harjanneのスナップです,飛ぶ 240RS ・・・ 飛ぶシーンは 240RS にピッタリですネ

                       


  
このナンバープレートA-1520 にラリースタート前,日産関係者が日本から持参した日本酒のお神酒をかけて祈ったそうです。右と左のナンバープレートの色違いは同乗者の国籍によって異なり一次的な赤プレートのドライバーは Mr,Timo Salonen/Seppo Harjanne(1983年) 黒プレートEXI 7115は Mr. Penti Airikkala/Sappo Harjanne いずれも 同じく 1000湖 ラリーのスナップです

Chassis No.000028

1984年 イギリスのモーター誌 AUTO CAR 21 NOVEMBER 1984 に掲載された 240RS のテスト・レポートでの写真抜粋です。リア・タイヤ幅を替えています?  かなり太めです。車両は GIVEN THE WORKS と書いてあります
 "ファクトリーカーを与えられた"・・・ とでも訳しましょうか ?
       
ところで,このワークス 240RS は '84年にRACへ参戦し14位でフィニッシュしています。何処へ行っちゃったんだろう? 気になりますネェ~

Chassis No.00002 レッキ車・トレーニング車・本番車・サポート車について
2011.12.9  Chassis No.000002

  
                 1983 Belgiumで      
日産 240RS ワークスカーにおける使い分け ・・・  例)として、Chassis No000001Chassis No.000002 は、日産が横浜からモンテカルロ用に2台が送り出された純粋のワークスカーです。その使い分けは No.000001がレッキ&トレーニング車で通常はその後アイスノート車、つまりコースがクローズされる直前コースを走り 雪・氷の状態を調べタイヤの選択情報を伝える車になります。そしてエントリー本番車はサロネンの1台でしたから Chassis No000002が本番車 = UIA4275と言う事になります。尚 サービス車は本番車と同じ仕様の 240RS を使用していました、それはすぐに部品を外して供給可能だからです (日産某氏)
DATSUNからNISSANへ変わる過渡期の為、ボンネットのステッカーは2種類貼り付けてます。

The 240RS works parts
2010.1.11

Team NISSAN Europe の 240RS ストックパーツ群(1984年)
大変興味が有りますネェ ・・・
車高調整式の前後ダンパーは おそらく減衰力の異なる数タイプの仕様が含まれているのでしょう。さらに良く見ると アルミ製のデフパーツ組み込が見られるなど軽量化等、当時の試行錯誤のセッティング苦労が垣間見る事ができます。

European Rally Chanmpionship 1983年  SPA の 240RS
2011.4.1 FRI

1983年2月の SPA
には Team Nissan Europe から 2台の 240RS ともう一台のプライベーター? Gr.B 240RS 3台が参戦していた。ドライバー Tony Pond ドライブの 240RSは 2位、そしてドライバー Jean Louis Domont の 240RSは 5位、もう1台はリタイアと言う結果だったが
雪道ステージで FR駆動での上位入賞と言う素晴らしい結果だった。ナンバープレートは おなじみの UIA 4276 LHDと UIA 4275 RHDである。
Team Nissan Europeのサービスクルー →
   
   5位の Jan Louis Domont  LHD 240RS   ▲ 1983年 SPA 2位の Tony Pond RHD 240RS

240RS の Chassis No ?!
2009.6.26

先日大変貴重な情報をニュージーランドの 240RS オーナーから受取った !
それは 240RS は200台の限定生産なのだが Chassis No.000
221 と Chassis No.001384の2台の 240RS が存在する ・・・ ! ? それもイギリス日産BLYDENSTENより発行された輸出の NATIONAL DOCUMENT ・・・ つまり 1983年2月にベルギーへの 輸出書類が存在する。

               
ベルキーでの 2台の 240RS ?  1年間 Castrol のスポンサードを受けた BXI 5024 & BXI 5025 Mariboro 輸出書類内容を確認すると!
①ナンバープレート BXI 5025
Chassis No.000221 HS 110
②ナンバープレート BXI 5024
Chassis No.001384 HS 110  ・・・ つまり この ボディーは 240RS(BS110)ではないのだ !!!
過去の資料を再確認の結果、糸が解けた 240RS の履歴 ・・・ それは 1982年にさかのぼる、 ワークスBXI5024がラリー参戦していたがそれは小オーバーフェンダー、エンジンは LZ20B 搭載 ・・・ その後、大オーバーフェンダー取り付け 「エンジンを FJ24 へ換装」した。これは BLYDENSTEN が手掛けたものと思われます。その 240RS に改造された2台車両が BLYDENSTEN によってベルギーへ輸出されたのだ。
その内の1台は現在フランスのミュージアムに展示(BXI5024 - X574) ・・・と言う事になる。残された1台はニュージーランドでレストア中。いずれにせよ, BLYDENSTENの手の入った車両でありそのパワーは 240RS に負けず劣らずであった事は間違い無い。このような履歴と言う事は 量産車から抜き取られた2台はワークスカーとして日産が 1982年に送り出した極少数の大変貴重な車両で それが現在も存在すること自体驚くべき事だ。200台の 240RS より貴重かも知れない?。

       
イギリスでの BXI5025    ベルギーでの BXI5025

     
BXI 5024 Belgium photograph LZ20B Engineは Solex 50PHH Carbを装着 2000ccとても希少なエンジンです
このBXI 5024は1983年ベルギーラリーで撮影されたものです? フェンダーが小さい、又フロントスカートの形状も異なります ・・・ つまり240RS プロトタイプと言うべきシルビア Chassis No. HLS110 - 0013841982年の車両。それを何らかの理由で1983年に使用したものと考へられることから ワークスの払い下げ車両の可能性? ・・・ となると Engine LZ20B !? ・・・ その後の情報によると LZ20Bだそうです。ドライバーは日産と深い関係にあった Mr. J.L.Dumontで Rally du condrozのシーンです。残念ながら彼は1984年自動車事故で死亡。
           
  ▲見ての通り同じライセンスプレート? BXI5024の1985年ベルギーのラリーです

スポンサーが ClarionからEPSONに変わっています(ライセンスプレートは同じ) ・・・ つまり、その後に
車両が FJ24の 240RS に変わったのですこの 240RS は1983年から1986年までのベルギーでキャンペーンしました。そして Mr.Jean Louis Dumond 及び Mr.Flory Roothaertのようなドライバーによって運転されました。尚 ヒマラヤンラリーに BXI 5024は参戦している、この時のドライバーは Mr.Tchine そして Van Obergen teme carだった。


フランスのミュージアムにある 240RS の現状
2009.6.26 Revised Chassis No.001384

現在 BXI5025 Chassis No.001384はフランスのミュージアムに現存。ベルギーの友人は 昨日(5.April.2009)約1000kmの行程を得てフランス・ミュージアムの 240RS 情報と写真を送ってくれた。
Chassis No.001384 ! つまり BLYDENSTENの手の入った HS110のボディーだ ・・・ !!!。
      
きれいにレストアされたボンネットにHIMALAYAN RALLY 11 の ゼッケンが付いている リアビュー ・・・ テールランプを良く見ると少し異なるような気がします、おそらく部品欠落で苦労しているのでは?
このモナコのナンバープレートX 574の 240RS は  → BXI5024(LHD)なのだ!

     
サイドブレーキは油圧式です 240RS のサイドブレーキにはワイヤー式 と 油圧式 がある 左ハンドルである事が明らかになった。シフトレバーが直立しシフトパターンも異なる事から ミッションは改良タイプが装着されている様子
その油圧式のサイドブレーキは 翌朝になると油圧が下がり 240RSが走り出し 立ち木にバンパーをヒットさせていた ・・・ ! なんて事がファクトリーカーであったそうです(日産某氏) ・・・  愛車から降りる時は 車止めの習慣をつけましょう。
ヒマラヤンラリーには 2台の同ボディカラー 240RS が参戦、1台のドライバーは Mr.Roothaerd Wauterで 2位フィニッシュ、もう1台は Mr.Tchineで 8位フィニッシュ ・・・ その Mr.Tchine から後日詳細情報を得る事になった!

1983年 サファリラリー初戦の 240RS
2006.1.28
1983年 SAFARI Rally は日産5年連続優勝の期待を背負った日産チームが 240RS 3台のワークスを投入参戦した訳ですが ・・・ その結果,ワークスは全滅と言う苦渋をなめた時でもあった。
そんな中,地元のプライベート参加の
Mr.J Shah 240RS が4位に食い込んだのです。Mr.J Shahは地元モンバサ出身で国内タイトルとヒマラヤ・ラリーに優勝しています。尚,この年は,日本から参戦した,スバル高岡祥郎 5位,バイオレット岩瀬晏弘 6位,スバルレオーネ高橋嘉信 7位,240RS柑本,ブルーバード岩下がリタイヤ
JAF公認の安全タンク (120?) '83 SAFARI Rally プライベート参戦の4位の 240RS

1983 SAFARI Rally 4 位 ・・・ サファリの大平原をバックに 戦い終わったサファリの戦士の勇姿です。ボディー の随所にダメージがあります 如何に過酷なレースであるか,且つ,生き残ることの難しさを垣間見る事が出来ます。この戦いでは Mr.Salonen Mr.Mehta Mr.Kirkland がリタイヤしています
           
          
Driver Shahr/Navigater Khan RHD
この状態をみると参戦の都度,ボディーとエンジンを交換せざるを得ないのが分かります。サフアリラリーを走ったワークスのボディは基本的に1回限り。日本へ持ち帰るコストを考えると現地で売却した方が良いとの考えでワークスのほとんどは現地関係者へ売却されたとの事です(某日産関係者)

WRC 1983 5連勝の夢破れた NISSAN !

若林チーム監督談 : Engine テスト不足が原因 (当時の雑誌より抜粋) 
当時,5ラウンド テストは当たり前であったが 自信があり過ぎたこともあり 5ラウンド テスト 不十分が ・・・ 日産某氏 
サファリは 粗悪ガソリンもエンジンが壊れる要因だった(ガソリンをろ過して使用)。しかしエンジンがもってもミッションもストラットもデフもダメで結局勝てなかったでしょう。A10の220馬力に対してほんの20馬力くらいしか増えてないから,ほとんど 何も変えてなかった(部番もA10のまま) (今だから言える ・・・ 日産 某氏)

日産はこの1983年サファリへ 期待の 240RS 新兵器を3台持ち込んだ。ドライバーは シェカー・メッタ、サロネン、マイク・カークランドである。又 セミワークスと言うべきプライベート日産として KOJIMOTO 、ジャイアント・シャーが 240RS をドライブしたその結果は ・・・ 
1979~1982年4回連続優勝と言う偉業の日産ワークス勢は全滅し、プライベート参戦のジャイアント・シャー 240RS 1台が4位 ・・・ と言う結果に終わった。

Chassis No.000003
Mr.Mehta の 活躍は語りつくせない ・・・1983年 MARLBORO SAFARI RALLY
Mehta は常に上位に位置していたのだが
・・・


1983年 Safari Rallyで Metha のEngineブロー (某記事より)
Mehta の Engineヘッドを交換する NISSAN メカニックの顔が苦渋にゆがんでいます


1985年サファリラリー・ケニア 5200kmの 240RS
2009.7.31

悪路と砂塵まみれの最も厳しいサファリラリー1985年の 240RS は ・・・ 25台中14台がリタイヤするなかで カークランドの 240RS は転倒しながら完走し 3位という結果 !  そのボディーは見ての通り ・・・ 屋根がつぶれフロントとリアウインドウが吹っ飛び、どのようにして砂嵐を走り切ったのだろうか?
   
こんな状態でも 240RS は走っている !! フロントウインドウが吹っ飛んだ状態の危険なドライブ ・・・ 完走を果たし 吹っ飛んだ窓越しに M・ドーティ委員長が握手を求める
             

第33回サファリラリー3位、こんな歴史のある 240RS ならどんな状態でも欲しい ・・・ どこへ行っちゃったんだろう? シャーシNoは ?

2010.8.10 TUE

今年の夏は異常気象と言われるほど、暑い ・・・ そんな暑さにピッタリの画像です。
これは WRC 1984/19-23 April と 1985/4-8 April の Marlboro SAFARI RALLY の公式プログラムの表紙です。当時のRally誌によれば サファリラリー特有の砂嵐と灼熱地獄の中の厳しいラリーで体力的にも限界だったようだ。一部の資料によるとレーシングスーツが義務付けられているが ドライバー達からあまりの暑さにレーシングスーツ着用を免除するようオフシャルへ申請が出されたようだが? それにしても マルボロカラーの 240RS ・・・ この画像はいまだに焼きついています。

               

お宝写真発見 !!

お宝写真発見です ・・・ 大変貴重な 2枚の写真は 当時 熱く燃えた NISSAN魂 が 今にも 甦ってきそうな写真です。
PA10と NISSAN ワークス チーム セピア色のこの写真,年代を感じます1982年  サインは Mr.Methaとそのナビのサイン 1982年4月の写真です

NISSAN Serviice Teams
2005.1.30
 
勢ぞろいの NISSAN Teams : auto technic 1982 06・より抜粋  ラリーの影の主役であるサービス・クルー,その苦労は我々の想像を遥かに超えるものだろう ? 無事にたどり着くだろうか ?  少しでも高いところで 遥か彼方を見つめ帰還を待つ心境は・・・

240RS - WHEEL - ENKEI
2009.6.21 ENKEI
        

グルーBの 240RS がWRCを初めとする数々の国際ラリー参戦に使用したホイールのほとんどが エンケイ(ENKEI)で生産されたものだ !  エンケイはその技術と信頼性により 国内外でもアルミホイールのトップメーカーとなった ENKEI ・・・
1983年 240RS がWRCへ参戦を始めた頃のエンケイはアルミホイール需要上昇過渡期で当時からモータースポーツへの参加が積極的で、WRCラリー参戦の日本人プライベーターのスポンサーをしていた。上の写真はその頃の写真でENKEIのボディーカラーとステッカーを前面にしてサファリ参戦した(Mr.IWASHITA) この1984年SAFARIの結果は 完走し 総合9位 ・ プライベート 2位

240RS Tarmac Rally wheel ENKEI
2006.07.18 ENKEI WHEEL

今回は 240RS がWRCで暴れまわった ターマック・ラリー用アルミホイールについて報告致します。既に20年以上経過した当時の 240RS ターマック用のホイールを入手することは奇跡に近く,且つ大変貴重なホイールなのです。
      
イギリスから取り寄せたこのホイールは ホイールのトップメーカーのエンケイが当時生産しました。(エンケイ設計の Mr.Y氏に確認すみ)
3 piece : ENKEI  Wheel size: 15 X 9JJ  OFF SET 8mm 4H114.3mm Weight: 7kg/pcs Production: 1982/9/29 S Casting
表側のフランジ部分を折返し,衝撃による変形強度上げている
リムはアルミ表面をバフ研磨している本来ならバフ研磨後にアルマイト処理又はクリアー塗装による防錆処理をするがWRC用にはその必要性が無く研磨のままである
取付穴は 60度テーパー加工を施してありテーパーナットで対応する
持った感じが非常に軽く,このサイズで 7kgとは大変軽い

2005.02.20 ENKEI WHEEL

WRC 参戦の 240RS 後期用に開発されたアルミホイール15インチを先日 240RS オーナーのMr.K氏がニュージーランドから入手した。使用可能か? ・・・ 当方へ問い合わせがあり,アルミホイール30年の経験を生かし品質確認をした結果,問題なく使用可能であること判明しました。しかし取付穴部分の 60度テーパー形状が通常品と異なる特殊加工の為「専用ナット」を使用する必要があります。尚,シリアル表示から 1985年 2月生産を確認できたことから遅くとも 1984年9月には設計が完了し 金型製作・試作・強度の品質確認を経て 1985年 2月に必要数の生産があったものと考えられます。しかし 時は既に遅しの感があり生産数は大変少数と推定されます。

エンケイ製ホイール15 X 7JJ OFF SET 22
240RS 用として開発され強度重視の設計
材質はアルミ合金で熱処理(焼入れ)を施している
表面に鋳出文字 NISSAN とDATSUN RALLY の表示があり240RS 専用である事を証明する
ホイール裏面の取付面には,生産(鋳造)年月日及び 鋳造班の鋳出し文字がある
鋳造シリアル : 1985年 2月23日 H班 尚,ENKEI マークも見える ↓

        
注)取付穴の形状はテーパー部が大きく,且つ スタットボルト穴が大きい為,通常のテーパー・ナットでは掛かり不足」で危険です
テーパー座の大きなナットが必要です

さて,240RSは1983年よりWRCへ参戦しているが ホイールは ?
                  
AP-5 240RS標準装着 14X6JJ OFF10 しかし過酷なWRCに3ピースの板リムでは変形など強度不足は避けられない。そこで15インチの1ピースのアルミホイールの必要性がでてきた ▲バハ BAJA
F15X7(0)R15X8.5
(-31.5) 当時EKで生産中の4WD用で対応。しかし オフセットは 小さめ ! オフセットを 22mmに大きくすることは金型を作り直す必要性があった
DATSUN RALLY
そこで 強度とオフセットの最適なホイール開発に至ったのす。つまり 過渡期には レーシング・コンペ・ バハなど色々な特別仕様のホイールが日産へ投入されたようです
DATSUN RALLYはWRC ラリー,それも「サファリラリー」の酷使に耐えうる前提に開発されたホイールの為,強度重視の設計で重量的には通常のホイール対比,重くなっているのは致し方ないでしょう

Test of a development phase  プロドライバーによる 240RS 開発
2009.6.13

この写真は今となっては大変貴重なプロドライバー長谷見氏、星野氏による 240RS 開発段階でのテスト風景です。場所は現在の福島県エビスサーキット、当時のダート路面での操縦安定性テストと思われます。

右写真 : TEST風景の 240RS ワークスカラーと白の240RS ・・・ 2台/200台です。
遠くにTEST中の 240RS と手前の白 240RS ・・・ 手前の人物は当時の星野ドライバーです 
無ステッカーの 240RS TEST ・・・ 
FRPのフロントバンパー欠落と後輪フェンダーが脱落しています ・・・ 激しいTESTが想像出来ます。このドライバーはヘルメットから長谷見氏のようです。
このTEST時、助手席に同乗した A氏の印象によると 次元の違うテクニックと走りに驚いたそうで ラリードライバーを目指すのは諦めたようだ。

555 RALLY HONGKONG BEIJING '85
2007.6.16
1985年 9・5-19日 中国で初の香港-北京ラリーが開催され240RS が4台完走の快挙でした。凱旋する 日産 240RS軍団  天安門広場に 240RS の凱旋です。しかし,それは日産若林監督にとっては最後のラリーであったそうです (auto technic 1982 06・より抜粋)
トヨタ・セリカのミッコラ,J・カンクネンの2台が脱落する中、2位に入賞の240RS それはルーフのエアーダクトそしてアクリルのスライドガラスは言わずと知れた正常進化モデル,いわゆるエボリューション
 【 総合順位 】

 1 アウディクワトロA2
 2
240RS L.E.TORPH/B.THORSZWLS
 3 オペルマンタ400
 4 アウディクワトロA2
 5
240RS S.MEHTA/Y.METHA
 6
240RS M.KIRKLAND/R.NIXON
 7 スバルターボ
 8
240RS M.EDUQUE/J.ESPINO

    
その 1986年 555 RALLY HONGKONG BEIJING 優勝車の アウディ・クワトロとオーナーです ・・・2000万円でも離さないとか!
その 555 RALLY HONGKONG BEIJING のポスターを 2005年イギリス訪問時、壁にあるのを見つけました(左2枚)・・・ 大変貴重なポスターです ※この壁のポスター全てがアウディ・クワトロ Rally に関するものです。

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